人世一夜の日登美荘
第3話
究極で至高な食糧問題 [#3]
「あら、日之本さん、お帰りなさい」
災害直後のようなでこぼこのロータリーを歩いていると呼び声がかかる。綾乃だった。駅前に買い物に来たという。小さなハンドバッグからカバーのかかった小さな本が覗いていた。
「そうだ、日之本さん、今晩……お暇ですか?」
「え?」
突然の質問に日之本の心臓が少しだけ跳ねた。
「もし、お暇だったら……その……」
固唾を呑んで綾乃の言葉を待つ日之本。
「今晩、歓迎パーティー、しましょっ」
必死に頭をフル回転させる日之本。
「日之本さんとまほちゃんとしもべさん。いきなり日登美荘の住人が3人も増えたんですもの。だから、お祝いです。親睦会も含めて。ね、いい考えでしょ」
歓迎会。肩から少しだけ力が抜ける。
「それは……ありがとうございます。うん、楽しそうですね」
「では、参加ってことでかまわないですね。よし、ひとりゲット!」
綾乃は右手をきゅっとグーにして、小さくガッツポーズをした。まほとしもべには朝から会っておらず、これから声をかけるという。綾乃は首をかしげながらさらに質問した。
「そうだ……えーと、日之本さんはダイエットとかされてます?」
ダイエットとはさらに唐突である。これまで特別に意識したことはない。幸い太っているわけでもなく、摂取と消費のバランスは悪くないはずだ。しかも、丁度今はけっこうな空腹で、ダイエットなどとんでもないという心境だ。
しかし、なぜ綾乃はそんなことを言い始めたか。つまり、彼女は今まさにダイエットをしている、少なくとも興味があるということだろうと当たりをつけた。日之本は綾乃の顔を見つめ、ひとつ大きくうなずく。
「頑張ってください」
「え?」きょとんとする綾乃。「何をですか?」
「だからその……ダイエット。どうか頑張ってください」
日之本は心の底からエールを送った。綾乃はぽかんと口を開けていたが……、
「……っ!」
たちまち息を飲んで、自分の身体を見回す。
「わ、私……そんなですか!? そんなにですか!? 頑張らないといけないホドですか!? 『どうか頑張って』なんて願われちゃうくらいアレなんですか!?」
顔を赤らめて綾乃は日之本に詰め寄り、一気にまくしたてる。日之本は大いなる粗相であったことに気がついた。
「いや!? そ、そんなことはありません!」
「でも、今……日之本さんは私にダイエットを……頑張れ、と……それはつまり、私が……私がっ」
急いでフォローを入れるも、綾乃は続けざまに日之本を問い詰める。もはや、半分泣きそうになっている。
「違います、違うんです! そうじゃないんです!」
日之本は2分ほど弁解を続け、綾乃はやっと納得して機嫌を直した。いっぱいいっぱいの女性を説得するのはとても大変で、日之本はその間にどんなことをしゃべったか全然覚えていなかった。
「大家さんにはダイエットは必要ありません、とてもスタイルがよいです、しなやかなラインが素敵です、とにかく今のままがすごくいいのです」
「あ、ありがとうございます」
怒ったからか照れているためか、綾乃は頬を赤く染めて日之本と目を合わせないようにして、ぽそりとつぶやいた。
「そうですね……いきなりダイエットの話なんかしたからいけないんですよね」
「結局、なんだったんですか?」
「丁度、ダイエット向けの食材キャンペーンがあるみたいなんです」
日之本が促すと、やっと綾乃はいつもの落ち着きを取り戻した。
「どこかのメーカーが新製品をキャンペーン特価で路上販売するとかって。そんな話を聞いたもんだからつい……。食べられないものがあるかって聞けばよかったんですね。今日用意するお料理のことを聞こうとしたんです」
日之本はやっと合点がいった。綾乃ははにかんでコツンと自分の頭を叩いた。
「いけないなー、ついついそっちの事で頭がいっぱいだったから」
「そっち?」
「あ、いえっ、なんでもないんです……え、えーと、じゃあ、日之本さんはどんなものでも大丈夫なんですね」
「なんでも食べますよ。好き嫌いないですし」
綾乃はにこりと微笑み、またガッツポーズを取って意気込んだ。
「よーし、そうと決まったら、早速、お買い物しなきゃ! はりきってお料理作っちゃおっと!」
日之本も心躍った。もしかして今日、空腹になったのはこのイベントのためだったのかもしれないとまで思った。付加価値のついた幸福を得るために、神が落としたぼた餅であろうか。
「だったら、俺も買い物につきあいましょうか? せっかくですから、荷物くらい持ちますよ」
日之本は気を利かせて荷物持ちを申し出た。まほとしもべもいるのだ。材料もたくさん用意して結構な量になるだろう。それにまた綾乃と一緒に歩いてみたいという気持ちにもかられていた。しかし、綾乃はうつむき加減で口の中でもごもごつぶやいた後、面を上げて優しく微笑んで応えた。
「いえ、これくらいだったら、ひとりで大丈夫ですから」
綾乃はさらりと日之本の申し出を断り、
「じゃ、また後で」
と、会釈をすると、ぱたぱたと立ち去ってしまった。
「あ……いってらっしゃい」
その後ろ姿をぼんやりと手を振って見送った日之本は、その手でくしゃくしゃと頭をかいた。彼が一緒では都合が悪いととれる素振りにも見えた。さて、考えすぎだろうか?
「……じー」
気がつくとポケットの中からアイベリーがチェシャ猫のような顔を出して日之本を見つめていた。
「なんなんだよ」
「べっつにー」
日之本は無視することにした。すると、すかさずアイベリーが言う。
「逃げられちゃったねー」
「何、言ってるんだよ」
日之本は一瞬、声がうわずってないか心配になったが、アイベリーはただ「さーねー」とだけ言ってさっとポケットの中に引っ込んでしまった。それというのも聞き覚えのある声が聞こえてきたからである。
「むぉっ、その姿、日之本殿っ! しもべを知らぬか?」
まほだった。日之本の姿を見つけるた彼女は、朝と変わらず元気いっぱいで手をぶんぶん振りながら走り寄った。そして、日之本の前で急ブレーキをかけるやいなや、開口一番、姉の行方を訊ねた。
「しもべさん? いいや、見てないけど」
「そうであるか。どこへ行ったのかのぉ。こちらでの食事をしようと、あちらこちら見ているうち、いつの間にかいなくなっておった。まったく世話が焼けるのじゃからなぁ」
日之本は苦笑した。世の中、姉より妹の方がしっかりしているということもよくありそうだ。
まほの腹がくーとかわいらしく鳴った。咄嗟にまほは恥ずかしそうにおなかを押さえた。
「むぉ……さすがにわらわも空腹がすぎておるわ……」
「あれ、もしかして、今朝から何も食べてないってことかな?」
「うむ」
まほがさらりとうなずく。
「こちらの世界に溶け込むためにどう答えるか話をしておって、ある程度、決したのじゃが……気がついたらこんな時間になっておってな……」
まほが何を言っているのかいまいちわからなかったが、空腹でつらい気持ちは日之本にもよくわかる。特に今は。
「しもべはわらわよりもふらふらしておったから。きっと食糧を求めてうろうろしておるに違いあるまい」
「……とにかく大変だね」
日之本は気の毒にと思いながら、歓迎会の話を伝えると、まほは途端に目を輝かせた。
「むぉ、つまり、パーティーであるか!」
「それは素晴らしいの! わらわはパーティーは好きじゃ パーティーは優雅でエレガントであるからの、大好きじゃ!」
「大家さんが腕によりをかけて料理を作るって言ってたよ」
「腕によりをかけて! むぉ、なんと園川殿はゴージャスな心構えであろうか」
まほは日之本に向き直る。
「ならば、一刻も早くしもべを見つけて知らせてやりたいものじゃ。わらわは捜索を続けることにする。真にすまぬのじゃが、しもべを見かけたら捕獲しておいてほしいのじゃ」
「あ、うん」
日之本がうなずくとまほはすまなそうに微笑み、商店街へと消えていった。だが、しもべが立ち寄りそうな場所と言われても見当もつかない。どちらにしろ、一度、日登美荘に戻ってからにした方がよさそうだとふみ、日之本は歩き出した。