人世一夜の日登美荘
第5話
Lead or Die [#1]
町枝駅の東口に久松書店という本屋がある。小さなビルの3階分を使っているそこそこ大きな規模だ。学校の帰り、日之本がその久松書店の前を通りかかったとき、入り口のガラスにペタンと貼られていた張り紙が目に入った。
『ボクのお店で働きませんか? 熱血な若者大募集!』
そろそろ生活費の保証もしておきたいと思っていたところである。日之本はとりあえず店主と交渉してみることにした。店主は小柴浩平という壮年男性であった。談判する事、約10分、人手不足という一面もあり、逆に日之本はぜひにと悃願された。そして、その場でペンを走らせて履歴書を作成し、即日、久松書店でのアルバイトが決まった。さっそく明日から働くと約束を取り付け、挨拶をして事務所から売り場に出たところで、偶然、綾乃と出会った。
「あら、日之本さん?」
日之本はたった今アルバイトが決まったことを報告した。綾乃はにこやかに讃えた。
「大家さんは何か目当ての本が?」
「はい、コミックを」
本日は漫画の単行本が多く発売される日だという。意外なことに綾乃は少年漫画の棚の前で立ち止まった。
「漫画、好きなんですか?」
「ええ、大好きです」迷いなく答える。「日之本さんは漫画は読みますか?」
「たまに。ずっと読んでるものはないけど……少年ジャパンなんかは知り合いのを見せてもらうことがあるし『はまルンジャ』はアニメを見てたこともあるし」
「! じゃあ……『非凡なる当事者たち』は知ってますか?」
「擬音がすごいやつでしょ、『ゴバァァァ』とか『ビッビッビィィン』とかって」
「『いかるが事件簿』とかは?」
「学校の知り合いがはまってます。主人公のへたれ探偵がいいって」
「『幻影奇譚』はどうです?」
「最初、シリアスなのかと思ったら、けっこうギャグだったんですね。頭叩かれて気絶しないと現実世界と夢の行き来ができないとか」
綾乃は日之本をじっと見つめると小さくつぶやいた。
「理解者だ」
「え?」
「日之本さんは……わかってくれるんですね」
「わかる……って、ああ、わかり……ますけども……いや、そんな大げさな」
実のところ、日之本はたまたま知っていたにすぎず、それぞれのタイトルの特徴も聞きかじった程度である。だが、綾乃は伏し目がちに首を振った。
「いえ、大げさではないんですよ。よく言われるんです。そんなの見るのは子供かオタクだって」
「それはまた乱暴な」
「……そう、ですよね。そうですよね、そうですよね!?」
綾乃は力説した。目が真剣である。
「そうですとも。漫画を読んでるだけで、そんなこと言われたらたまりませんよね」
日之本は思ったことを率直に口にすることにした。
「というか、今は漫画を読まない人の方が少ないでしょう。以前は『漫画を読むからバカになる』なんて言われた時代もあったらしいけど。逆に漫画を読まなければ立派な大人になれるってこともないですしね」
綾乃は日之本の話を黙って聞いていたが、突然、日之本の手をぎゅっと握りしめた。日之本は小さくて暖かい感触にどきりとしたが、綾乃の方はというと、ことさら彼の血圧や脈拍や体温を気にすることはなく、しきりにうなずいて感動していた。
「理解者が……いるっ」
綾乃はいっそうにこやかに微笑み、しみじみとつぶやいた。
「少年漫画は小さい頃からずっと読んでいるんです。父がよく雑誌を買ってきて、それで私も一緒に読むようになって」
「へえ……そうなんだ」
「でも」
綾乃は言葉を切った。何か物思いにふけっているようだが、どことなく憂いを帯びているように思えた。今までに何かよくない想い出があるのかもしれない。
「ああ、いえ、それよりも、これ、買ってきます。すぐに戻りますから」
綾乃は打って変わって意気揚々と平台に積まれていた単行本を手に取った。水島ヒカル著『はまルンジャ!』の第十四巻。そしていそいそとレジに向かった。綾乃が離れると、すぐにアイベリーが顔を出す。
「アンタは買わないの?」
「別に欲しい漫画はないからな」
「エッチな内容のだったら?」
「買わない」
「はぁ」
「なんで不思議そうな顔をするんだ」
「今なら園川綾乃は見てないじゃない……あ、そうか! アイも顔出さないでおくよ!」
「他人に見られるのが恥ずかしいから買うのを控えているわけではない! そんなろくでもない気の使われ方は迷惑だ」
日之本はアイベリーを小突いて綾乃の戻りを待った。